隠岐キンニャモニャ祭りツアー2011〜四日目(8/29)

ツアー最終日。6時起床。
例によって例の如く朝風呂を浴びてから朝食を摂る。8時にバスに乗り込んでホテルマリンポート海士を出発、海士町の役場の職員がガイドとして添乗する。まず最初に立ち寄ったのは潮風ファーム。潮風ファームは初めて隠岐牛ブランドを確立した肉用牛の牧場であり、初出荷の肉牛は最高級の品質を取った位素晴らしい肉用牛を出荷し続けているとのこと。しかしブランド名がさほど普及しておらず、おまけに東日本大震災の影響で牛の価格が下がってきておりなかなか大変だそうだ。それでも希望は捨ててはいないところに自分は感銘を受けた。その後はそこの牛舎を見学して餌やりを体験してきた。
またバスに乗り込み、海士町で塩を作っている海士御塩司所に岩ガキの養殖場のある場所の近くを通り、名水百選にも選ばれた天川の水に立ち寄る。そこできれいな水をいただきリフレッシュする。
バスは一旦ホテルに戻り、ホテルの大広間で町役場の方が引き続き海士町の過去と現在、将来のビジョンについて説明を行なった。今までの海士町は離島という事で国から沢山補助金を頂いていたが、気がつけば累積赤字で破綻寸前の域にまで達していた。現町長である山内道雄町長に変わってから、町職員、役員、議員等の報酬カットをはじめ各種補助金撤廃等の行政改革を断行して財政を健全化。またUターン・Iターン移住者を積極的に受け入れる政策を行ない、よそ者の視点から新たに産業を興して町の活性化に繋げる。住民の協力もあったおかげで海士町は離島である難題を克服してこれらの快挙を達成し、遂には市町村や各省庁から何度も視察が訪れている…という話を様々な所から聞いた事がある方も多いのではないだろうか。こうした話題の尽きない海士町だが、最近では海藻が激減しており、それに伴いアワビ、サザエ等の漁獲高が年々減少しているという問題に直面している。そのため現在近海の海藻を増やすプロジェクトを計画しているとのこと。ただ単に成功話ばかりではなく、それに至る苦労や新たな課題についても包み隠さず話した点では、好感度は
高かった。ちなみに自分が話を聞く限りではUターン・Iターンの移住に向いているのは、リタイアしてのんびり過ごす事を目当てにしている人ではなく、島内に骨を埋める覚悟のある人が適していると思われる。まあ当然の話だが。でも少し眠かったのは内緒だ(笑)
昼食は菱浦港の食堂でシマメ(白イカ)の漬け丼を食べる。B級グルメ選手権で7位だったそうだが、これはマジで旨かった。
昼食後にフェリー出発までに時間があるのでその間にお土産を購入。フェリーは12時50分には菱浦港を出発、海士町でお世話になった方々とお別れ(;_;)/~~~港から船にかかるテープがより一層別れの寂しさに拍車をかける。
フェリーは程なく西郷港に到着、それからバスに乗り換えて一旦隠岐空港に寄ってから自分は小沢千月先生・国村千鳥先生ら有志の方々と共にバスに残って茶山先生のお宅に焼香をあげに向かった。茶山先生のお宅は空港の近くにあり、立派な邸宅だった。早速茶山邸にお邪魔して大広間に向かうと、そこには在りし日の茶山先生が三味線片手に得意気に司会をしている特大の写真が飾ってあった。この楽しそうな茶山先生の写真を見るとより一層悲しくなってきた。遂には千月先生は泣きながら「別れのしげさ節」を唄い出した。いつの日かしげさ節全国大会に出場して優勝して茶山邸にご招待されるのが目標だったが、残念ながらその夢は叶わなかった。また五箇民謡会や海士町の方々との会話の中で、茶山先生が隠岐三味線というカテゴリーを作り世に広めた功績は大きいと口々に言っていたが、自分もそう思う。隠岐民謡界に茶山先生の抜けた穴は大きいが、その遺志を引き継いだ者は決して少なくないと信じている。大広間にて少し歓談してから退散。
隠岐空港に戻りそこでもお土産を購入、ツアーガイドさん達に五箇民謡会の方々に見送られながら伊丹空港行きの便に搭乗、伊丹から羽田空港行きの飛行機に乗り換えて帰京。

帰ってから持ち合わせがなかったのでATMで預金残高を見て呆然、来月から節約生活に突入ですorz